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2021.8.31

竹鶴孝太郎/ 「マッサン」の主人公、ニッカウヰスキー創始者 祖父・竹鶴政孝を語る

2014年から2015年にかけてオンエアされ、大ヒットしたNHK連続テレビ小説「マッサン」。この主人公のモデルとなったのが、日本ウイスキーの父と呼ばれ、ニッカウヰスキー創始者でもある竹鶴政孝、私の祖父である。「マッサン」では、私が知らなかった祖父母の若かりし頃の話もあり、私は「マッサン」放送を機に、竹鶴家の歴史や祖父の人生について振り返ることになった。

 

竹鶴政孝・リタの初孫として北海道・余市町に誕生した私は豊かな自然に囲まれ、両親と祖父母から多くの愛情を受けて伸び伸びと育てられた。私が8歳のときに祖母リタが亡くなり、15歳で東京へ引っ越すまでは祖父と同じ屋根の下で暮らしていた。

 

祖父は声が大きく、陽気でよく笑う人であった。どこにいても祖父の声が響き渡るので、その存在は常に目立っていて、何よりも独特のオーラに包まれたダンディな人であった。


中央の写真には幼い頃の私と右端には祖母リタ。左端には母そして妹。左は祖母リタ、右は祖父政孝の若き日の写真。 中央の写真には幼い頃の私と右端には祖母リタ。左端には母そして妹。左は祖母リタ、右は祖父政孝の若き日の写真。

中央の写真には幼い頃の私と右端には祖母リタ。左端には母そして妹。左は祖母リタ、右は祖父政孝の若き日の写真。


祖父は、比較対象を持つことで、本物がわかるようになると教えてくれた

 

余市の家で、突然、祖父に「孝太郎、贅沢とはなんだと思う?」と聞かれたことがあった。子供の私にはその質問の意図がわからず黙り込んだら、「それはお前がここにいることだ」とさらに私を混乱させる言葉が返ってきた。

 

余市の家はリンゴ畑に囲まれた三千坪の敷地にあった。敷地内には、ぶどう、ネクタリン、桃、カラントなどの木があり、きゅうり、なす、トマト、キャベツ、大根、とうもろこしなど季節ごとの野菜が収穫できる広い畑もあった。「作物は土に撒かれた種が土の養分を吸って実を大きくし、そして熟していく。その果実や野菜を朝露がついた状態でパッともいで食べられる、こういう環境にいることは最高の贅沢なんだ」と祖父は新鮮な食べ物がいかに贅沢かを説いた。

 

食へのこだわりが深い祖父は、家族に美味しい物を惜しみなく食べさせてくれたことで、私に本物の味を伝えてくれたと今では感謝している。


「竹鶴ピュアモルト」は日本のみならず海外でも人気が高い。政孝が亡くなった後、「ブレンデッドウイスキーのように飲みやすいモルトウイスキー」をコンセプトに開発された。 「竹鶴ピュアモルト」は日本のみならず海外でも人気が高い。政孝が亡くなった後、「ブレンデッドウイスキーのように飲みやすいモルトウイスキー」をコンセプトに開発された。

「竹鶴ピュアモルト」は日本のみならず海外でも人気が高い。政孝が亡くなった後、「ブレンデッドウイスキーのように飲みやすいモルトウイスキー」をコンセプトに開発された。


祖父は語る。「人を喜ばせるウイスキーをつくるためには、
それに携わる人が美味しいものを食べて生活を楽しむことが大切である」

 

祖父はお酒に関しても私に英才教育を施した。「ウイスキーは香りで品質の7、8割がわかる」と話していた祖父は、子供だった私へグラスに注いだウイスキーの匂いをよくかがせ、ウイスキーについて語った。

 

祖父は、孫に帝王学を授けるつもりだったのかもしれないが、成人した私は香りの違いはわかるものの、自分では酒を飲みたいとは思わなくなってしまった。きっと子供時分にさんざん酒の香りをかぎ、脳が一生分の酒を飲んだと勘違いをしたのかもしれない。

 

無類のウイスキー好きだった祖父はウイスキーのたしなみ方にも自流があった。「ウイスキーそのものを味わうにはストレートか、あまり冷やし過ぎないロックがいい。でも毎日飲むのなら、胃の粘膜を傷つけないように水割りがいい」。
実際祖父は、愛用の氷が三つ四つ入る八オンスタンブラーに、ウイスキーを一に対して二の割合の水を入れた水割りを夕食後よく飲んでいた。その愛おしそうにウイスキーを楽しむ姿はいまでも脳裏に焼き付いている。


日本ウイスキーの父である祖父とスコットランド人の祖母リタの物語は世界で紹介されている。 日本ウイスキーの父である祖父とスコットランド人の祖母リタの物語は世界で紹介されている。

日本ウイスキーの父である祖父とスコットランド人の祖母リタの物語は世界で紹介されている。


苦境にあってもひるむことなく、信念を貫く姿が人を惹きつける

 

私の知る祖父は仕事に対しても、食や身に着けるものに対しても、すべてにこだわりと妥協がなかった。洋服などはブランドへのこだわりもあったが、何よりも生地や仕立てなどの質の良さにこだわっていた。それは人目に触れない下着でさえも同じで、常に最高級の素材のものを身に着けていたのだ。

 

祖父のトレードマークであった八の字を逆さにしてピンとはね上げたカイゼル髭も、祖父のこだわりだったようだ。最期に入院していた病院でさえ、来客を迎えるときにはきちんと髭を整えていたと父は語っていた。
これは祖母・リタも同じであり、自室を出るといつでも外出できるほど身だしなみを整え、ヒールを履いて暮らしていた。祖父母ともに自分のスタイルを崩さず、自分の哲学を持って堂々と生きた。

 

しかしその祖父の忘れられない姿がある。それは祖母が亡くなったときのことだ。祖父は人目をはばからず大声で泣き、その声は家中に響き渡った。あれから18年後、祖父は85歳で亡くなるのだが、その入院先で「文化が違う人間同士が一緒になるのは大変なことだ。自分を愛し、日本に連れてきてしまったが、スコットランド人と結婚していればしなくて済んだはずの苦労をさせてしまった」。その祖父の言葉はいまでも私の胸の奥にある。


祖母リタの料理本。祖母が手書きした日本料理のレシピもはさみこまれていた。左のウイスキー樽の端材で作られた十字架は、教会に十字架を寄付し、司祭から信者へ渡されたもの。 祖母リタの料理本。祖母が手書きした日本料理のレシピもはさみこまれていた。左のウイスキー樽の端材で作られた十字架は、教会に十字架を寄付し、司祭から信者へ渡されたもの。

祖母リタの料理本。祖母が手書きした日本料理のレシピもはさみこまれていた。左のウイスキー樽の端材で作られた十字架は、教会に十字架を寄付し、司祭から信者へ渡されたもの。


祖父も父も、一度も私に跡を継げと言ったことはなかった。しかし大学卒業後、ニッカウヰスキーに就職することが決まったとき、祖父は嬉しそうであった。
ニッカウヰスキーでは、私は祖父や父と同じマスターブレンダーではなく、商品開発やマーケティング、ブランディングなどに携わり、国内外を飛び回り約20年間勤めた。その経験を活かし、さらに幅広くブランディング戦略に関わっていきたいという思いから、ニッカウヰスキーを辞める決意をした。多くの人にかなり反対もされたが、新たな道へ進むことへの迷いはなかった。

 

そしてその後は様々な企業のプロデュースやブランディングに関わり、いまは日本の伝統技術やモノづくりにも非常に高い関心を持っている。
若い担い手や職人さんと交流を深め、日本の伝統技術やモノづくりを私なりにサポートしていきたいと考えている。そこに宿る人々の思いをつなげていくこと、これがこれからの私の役割だと思うからだ。そして、これから迎えるジャパニーズウイスキー100周年に向けて、何か特別なことを行いたいと考えている。

 

(敬称略)


Photography by natsuko Okada
撮影協力:WINE LIVING Signature

Profile

竹鶴孝太郎
Kotaro Taketsuru

 

1953年北海道余市生まれ。竹鶴威・歌子の長男として生まれ、幼少期を祖父母である竹鶴政孝・リタと共に余市で過ごす。大学卒業後、ニッカウヰスキーに入社し約20年勤務した後、退社。1998年ブランドコンサルティング会社「ブランド・アイデンティティ・ネットワーク(bin)」を創設。2005年、顧問先のビジュアル制作大手アマナと合流。ヤマサ醤油「鮮度の一滴」、日本電波塔「東京タワー」CI、新技術のブランド化のプロデユースなどで活躍。現在は竹鶴商品研究所代表、アマナ顧問、ニッカウヰスキー顧問など数社の顧問を務めている。

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