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Portraits

世界三大テノールを日本へ招聘した男

2020.6.3

ドミンゴとの堅い絆。プロデューサー 寺島忠男が日本に届けたオペラ界の至宝の真心

プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、そして今は亡きパバロッティ……世界三大テノールと呼ばれたオペラ界の至宝を日本に招聘した敏腕プロデューサーがいる。クラシック界のみならず、これまで様々なジャンルの海外アーティストの良質なエンターテイメントを日本に紹介した寺島忠男の心を最も震わせた公演とは? 2020年初頭、プラシド・ドミンゴの日本公演を成功させた寺島がいま語る言葉とは。

ジャズ・シンガーからアメリカを拠点にした音楽プロデューサーへ

日本に居ながらにして多くの海外アーティストのコンサートを楽しめる今。私たちはそれを当たり前と感じているが、数十年前までは想像さえ出来なかったことだ。今の状況を作り上げたのは、海外の音楽業界に確固たるコネクションを築いてきた音楽プロデューサー達である。中でも、「パシフィック ミュージック エンタープライズ」の社長、寺島忠男は70年代からあらゆるジャンルの一流アーティストを日本に招聘してきた大物プロデューサー。長きに渡り、日本の音楽業界を盛り上げてきた立役者の一人だ。

 

寺島は、もともとジャズ・シンガーを目指していた。人気バンドの歌手としてスタートし、高級クラブの専属歌手として活躍。クラブで観たフランク・シナトラやナット・キング・コール、サミー・ディビス・ジュニアなどのステージから、ショービジネスのあり方を学んだ。本場のジャズが聴きたいと1965年に初渡米。「人にものを見せる見せ方の姿勢と技術の違いに大きなショックを受けて、帰ってきました」。この旅はプライベートにおいてもターニングポイントとなった。サンフランシスコ在住の女性と知り合い、結婚へと発展、翌66年に永住を決意して再渡米をした。71年にパシフィック ミュージック エンタープライズを設立し、当初は日本の歌手のアメリカ公演をプロデュースしていた。

6年がかりで実現した三大テノールの日本公演

寺島が日本で注目されたきっかけは、ペリー・コモだ。来日していない最後の大物と言われ、日本の音楽業界がしのぎを削ったコモの来日公演を実現させたことで、業界に名前が知れ渡った。その後も戦前戦後を通して活躍したペギー・リー、ジャズコーラスで一世を風靡したマンハッタン・トランスファー、70年代~80年代に大ヒットを飛ばしたケニー・ロジャース、ソ連からアメリカに亡命し、映画「愛と喝采の日々」にも出演したバレエ・ダンサー ミハエル・バリシニコフ、亡き父・ナット・キング・コールとのオーバータブでのデュエット「アンフォーゲッタブル」で再注目されたナタリー・コール等、寺島が日本に送り込んだアーティストは枚挙にいとまがない。

 

中でも、プラシド・ドミンゴとの関係は深く、87年の初来日で絶大な信頼を得て、極東地域の代理業務を委託されている。96年に国立競技場で行われたドミンゴ、パバロッティ、カレーラスの三大テノールの初日本公演も寺島が手がけた。「ライバルの3人が同じステージに立つというのは凄いことです。この話を初めて聞いた時、絶対自分の手で日本公演をやろうと思い、ローマの公演を観に行きました。そこからのスタートですから、実現までに6年の歳月がかかっています」。

 

日本の公演では、3人が『川の流れのように』を歌って観客を驚かせたが、これは寺島の選曲だ。「テレビでも放映され、多くの人が観るので、日本の歌を1曲歌わせたいと思いました。どんな曲がいいか、1年間考えていましたね。みんなが『えっ!』と驚いて、感動してくれなくてはならない。絶対この曲しかないと決めたのです。間違いではなかったと思います」。

寺島夫妻を囲む、ドミンゴ、パバロッティ、カレーラスの三大テノールとのスナップ。 寺島夫妻を囲む、ドミンゴ、パバロッティ、カレーラスの三大テノールとのスナップ。

寺島夫妻を囲む、ドミンゴ、パバロッティ、カレーラスの三大テノールとのスナップ。


プラシド・ドミンゴとの堅い絆
ドミンゴの言葉に心打たれた、最も感慨深いコンサート

ドミンゴの日本公演は30回近く手がけているが、最も感慨深かったのは東日本大震災の1ケ月後に東京で行われた公演。アンコールでドミンゴが祈りを込めて唱歌『故郷』を日本語で歌い、総立ちになった観客も一緒に歌いながら涙した伝説のコンサートだ。寺島は震災後、来日を控えたドミンゴに日本政府や東京電力の公式データを送り続けたが、「絶対に大丈夫」といった言葉はかけなかった。しかし、ドミンゴは予定通り来日した。

 

来ることにためらいはなかったかと聞かれたドミンゴは「一度も疑問を持たなかった。もし、来ない方が良い状況なら、24年間一緒に仕事をしてきたヨシコ(寺島の夫人)とテリー(寺島の愛称)が最初に言ってくれる。彼らが言わないなら、絶対安全だと確信を持っていた」と答えた。この言葉を聞き、寺島は涙を抑えることができなかったという。アーティストとの深い信頼関係が生み出す堅い絆。それが寺島の活躍を支えている。

2020年1月のサントリーホール公演で熱唱するドミンゴの雄姿。バリトンの迫力に観客は感歎を持って迎えた。©堀田力丸   2020年1月のサントリーホール公演で熱唱するドミンゴの雄姿。バリトンの迫力に観客は感歎を持って迎えた。©堀田力丸

2020年1月のサントリーホール公演で熱唱するドミンゴの雄姿。バリトンの迫力に観客は感歎を持って迎えた。©堀田力丸

寺島は85歳になるが、今も現役だ。拠点のサンフランシスコと日本を往復し、直近では2020年1月にプラシド・ドミンゴの公演を実現した。「ドミンゴは4年前にテノールからバリトンに変わったのですが、深くてすごい声が出るようになっていて、ファンの方も皆驚いていました。今回は本当に素晴らしかったです。」。できれば、もう一度ドミンゴの公演を日本でやりたい。そんな夢も寺島なら、きっと実現させてしまうに違いない。

 

(敬称略)

寺島忠男 Tadao  Terajima

1935年生まれ。日本大学芸術学部在学中に、師事していたジャズ歌手ティーブ・かまやつ氏の推薦でブルー・コーツの専属になり、駐留軍の将校クラブで歌手としてスタート。65年に渡米。66年に結婚を機に永住を決意して再渡米。71年、(株)パシフィック ミュージックエンタープライズを設立。77年、ビッグ・バンド「バディ・リッチ・オーケストラ」の日本招聘に関わったのを機に、アメリカのアーティストの日本への送りこみにも業務を広げる。以降、数多くのアーティストを手掛けたが、特に三大テノールの日本公演(96)やレーガン大統領夫妻を迎え、ペリー・コモやプラシド・ドミンゴが出演した「フレンドシップ・コンサート」(89)、カレーラス、ドミンゴ、ダイアナ・ロスが出演した大阪ドーム開場記念イベント「スーパー・コンサート」(97)などは多くの人の記憶に残る公演を招聘。2019年には、長年にわたり芸術を介して日米両国の文化交流促進による貢献が認められ、外務大臣表彰された。

Photography by Kinji Kanno (amana)
Text by Yoshiko Takahashi

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