株式会社箔一 取締役会長 浅野邦子氏株式会社箔一 取締役会長 浅野邦子氏

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2018.6.8

日本のプレミアムに取り組む企業 
株式会社箔一 取締役会長 浅野邦子氏インタビュー

石川県金沢市に本社を置く、箔一。金沢箔やその工芸品の製造・販売でよく知られる企業です。女性であれば、化粧直しに使うあぶらとり紙からその名を知る方も多いのでは。今回は箔一創業者で、現在は取締役会長を務める浅野邦子さんにお話をうかがいました。

かつては素材産業だった、金沢箔

金沢と言えば、金箔」。現在、その連想に異を唱える人は、あまりいないでしょう。観光地として高いブランド力を持ち、2015年の北陸新幹線開通以後は、よりその価値を高めている金沢において、金沢箔を使った伝統工芸は重要な産業のひとつとなっています。

 

しかし今を遡ること40数年前の1970年代の様相は、まったく違ったと浅野さんは言います。

 

「当時箔業界というのは、素材産業、下請産業でした。山中漆器や三河仏壇、西陣織などに、昔から金沢箔は使われてきましたが、あくまで黒子。最終製品を作ることはなく、商品になった時には他のブランド名が付くのがあたり前だったのです」。

 

金箔とは、金にごく少量の銀や銅を加えて金槌等でおよそ1万分の1〜2㎜まで薄く伸ばし、箔状にしたもの。箔には金のほか、銀箔、錫箔、真鍮箔などもあります。金沢で金箔が初めて作られたのは初代加賀藩主・前田利家公の時代である16世紀末と言われ、現在、国内総生産量の98%が同地で製造されています。

 

普通の主婦が夢見た「金沢箔工芸品」の誕生

「京都で公務員の娘として生まれ育ち、高校卒業後OLをしてから、二十歳で金沢の箔屋さんの6男さんのところへお嫁に来ました。子どもは息子と娘がひとりずつ。ごく普通の主婦でした」。

 

そんな浅野さんの大きな転機は、1973年の第一次オイルショック。日本を大きく揺るがせたこの事件は、浅野さんと家族の生活にも大きな影を落とします。不況で高級美術品や工芸品の販売数量は低下。連動して、金沢箔の需要も大幅に減少しました。

 

「子どもが幼稚園の年長さんと年中さんだったかしら、あの時の給料は半分が現物支給で。本家の息子でもですよ! この生活がずっと続くのかと思ったら、不安で、不安で……」。

1980(昭和55)年、当時の箔一本社前に立つ浅野邦子さん

その頃、浅野さんは、金沢箔という名前が一般消費者に知られていないこと、金沢の箔業者が最終商品を製造しないことに疑問を持ちました。不況による不安も後押しし、「金沢箔を使って、金沢箔の名前を冠したものづくりをしなければ」と思い立ったのです。

 

「あの頃はね、仏壇の箔部分が変色したとか、額縁がハゲたとかという理由で、箔屋に返品がゴロゴロ来たんです。もちろんそうなれば、お金はいただけません。でも、『本当に箔のせいで、不良品になったの?』と思うケースもままありました。また、親方から地金を仕入れて箔を作る箔職人は、どんなにすばらしい技術を持っていても、価格は自分たちで決めることができない仕組みでした。これらを解決するための糸口が、ものづくりだったのです」。

 

浅野さんは箔の素人。職人でもなく、夫の実家からの支援も望めません。しかし金沢箔を使う工芸生産地を回り、箔を貼る技術を見よう見まねで修得していきます。最初に販売したのは、プラスチックの木地に真鍮箔を貼った皿で、5枚で1800円。普通の主婦に手が届く価格の金沢箔工芸品を、普通の主婦だった浅野さんが世に生み出した瞬間でした。

 

「創業は1975年、昭和で言えば50年の1月6日です。この日が初めて、伝票を付けた日だったから、よーく覚えています。今でもその伝票は金庫に残してあるんですよ」。

 

起業の原資はOL時代の貯金、15万円。金沢箔で一番最初に工芸品を作り、またその分野でトップになるという思いを込め、浅野さんは自らの会社に「箔一」と名付けました。

女性の地に足の付いた視点から、商品を開発

金沢箔によるものづくりを模索し、作った工芸品を全国各地のデパートに売り込みに歩いた浅野さん。それは過酷な日々だったと言います。

「金沢では当初、私の作った金沢箔工芸品は受け入れてもらえませんでした。玉の輿に乗ったと安心している京都の両親に心配をかけたくなくてね、最初の営業先は大阪。そこから名古屋や東京などを回りました。デパートは完全に縦割りの世界。そこへ、銀や真鍮などを作った色箔というよそにない素材を使った工芸品を売り込みましたが、最初はけんもほろろ。デパートで初めて販売できたのは、東京・玉川髙島屋で催された金沢物産展でのことでした」。

伝統の技を現代に活かしたことで生まれた「ふるや紙」。肌ざわりの良さ、吸脂性の高さで今もロングセラーだ

その頃浅野さんは、全国で初めて金箔打紙製法によるあぶらとり紙を開発。これが大評判になります。金箔づくりでは、金を打つときに間に「箔打ち紙」というものをはさみます。2gの金を畳1枚分までに叩き伸ばすために必要なこの紙は、京都の舞妓さんたちが化粧後のあぶら浮きを押さえる「ふるや紙」として愛用されていました。しかし柿渋などが配合されているこのふるや紙は、現代女性の肌には不向き。浅野さんは箔打ちの技法を使って、専用のあぶらとり紙を製造することを思いつくのです。

 

「日常品として使える工芸品や肌に優しいあぶらとり紙もそうですが、その後に作った食用金箔、化粧品など、まずは自分がいいな、欲しいなと思うものを作ってきました。その点は、女性起業家らしさかもしれません」。

 

女性だったからこそ生まれた、ヒット商品。一方で、女性だったからこその苦労も多々あったそうです。

 

「当時、起業する女性は珍しかったから、そりゃ色々ありましたよ。取引先との宴会で『酒呑めー!』、『酒注ぎに来い!』なんて、かわいいもの。『ウチと取引したかったら、この股くぐれ』と言われたこともありましたねぇ。今から思ったら侮辱な話、パワハラですよね(笑)。でもねぇ、イヤだと言うヒマはなかった。心の中で思ってましたよ、“東京に大きなビルを持ってる”、“東名高速道路にバンバン、トラック走らせて作ったモノを売ってる”、そういう会社だって、みんな私みたいなところからスタートしてるんだって。これを乗り越えんと、大きくならん、とね」。

常識に囚われずブランドを作り、それを守る

食用金箔を1枚被せて大人気となった金箔ソフト。寿や松竹梅などの文字や柄に抜いた箔、アラザンなど、食用金箔のラインも多彩

金沢箔を使った工芸品から始まった箔一は、その後、建築材、食用、化粧品、箔加工、材料事業などと事業を拡大。この間、幾多の浮き沈みを経験しながらも、創業から40年を越えました。現在は金沢本社、東京・銀座ショールームの他、直営店9店舗、カフェ6店舗、また箔貼り体験が出来る「体験処」が2店舗、そして工場5拠点を持ち、直営本店である「箔巧館」は金沢箔の歴史や技術を紹介する観光施設として一般に公開されています。
箔一は自社一貫工場での製造にこだわっていると浅野さんは言います。高い技術力を内部に保持し、製品のすみずみまですべて自社で責任を持つにはそれが必須だからです。

成田空港国際ターミナル内の箔装飾。手技を活かした技法と提案力で、ホテルやレストラン、交通機関などに、多くの建築装飾を納めている

「うちには外注の職人さんはいません。すべて、雇用した社員。社員には安定した生活の中でいいものを作って欲しい。そうでなければ、金沢箔のすばらしい技術をさらに高めながら残すことができませんから」。

 

京都から金沢へ来たヨソ者なのに、素人なのに、女性なのに。そういくら叩かれても決してへこたれなかった浅野さん。夫の実家である箔屋の本家から縁を切られたことは、さすがにつらかったと言います。しかし「意地を通せば、実績や」と孤軍奮闘から始まった金沢箔工芸品は、いまや地場産業のひとつとしてなくてはならない分野となりました。

 

「でもね、伝統というのは、ブランドというのは、一瞬で消えるんです。私ね、1回だけ不良品を出したことがあったんです。それを現場が黙っていたものだから話がこじれ、約14億円の損失になりました。これは身をもって危機管理を学ぶいい経験でしたね」。

だからと、浅野さんは笑いながらこう言います。「時々社員をこう叱るの。『売上を取るのと、ブランドを守るというのは、まったく違うんやて! 甘い仕事で箔一の名前を汚さんといて!』ってね(笑)」。

 

2009年には社長を息子の達也さんにゆずり、事業承継もつつがなし。自身は2016年に経団連審議員会副議長に就任。地方から日本の経済界を変えるべく、積極的な活動を行っています。

 

「推薦していたただいて入った当初は、大企業ばかりの経団連で私に何ができるのか?と、正直、困惑しきり。でも地方で起業した女性で、現在は中小企業のオーナーである自分だからこそ、言えることもあるのだと今は分かっています。そのお役目をまっとうしなくてはね」。

 

ものづくりができない企業は絶対に滅びる、と断言する浅野さん。今後は次世代の箔一ブランドを構築する人材の育成が使命だと語ります。女性ならではの視点を活かしながら経営者として着実な成長を遂げ、常識に囚われることなく新しい産業とブランドを生み出したそのパワーは、桁外れ。新風を巻き起こしてきた歩みは、まだまだ留まることを知りません。

 

※この記事に記載されている内容、情報は公開当時のものとなります。

<プロフィール>

浅野邦子(あさの くにこ)

京都市生まれ。1975年、箔一創業。金沢箔を使った商品を提案し、「金沢箔工芸品」という新分野を生み出す。76年、全国で初めて金箔打紙製法によるあぶらとり紙を商品化、特許取得。77年、株式会社箔一を設立し、代表取締役社長となる。2009年、代表取締役会長に就任。日刊工業新聞優秀経営者顕彰「女性経営者賞」、通産省ニュービジネス協議会「レディスアントレプレナー賞」、経済産業省「ものづくり大賞優秀賞」など多数受賞。2016年、経団連審議員会副議長に就任。


取材/島村美緒(プレミアムジャパン)、文/木原美芽、写真/山村隆彦

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